読売新聞内定者

 

題「日米関係」

 

 ごはんと牛乳の組み合わせが物議を醸した新潟県三条市。牛乳が学校給食から忽然と姿を消した。食糧事情が厳しい終戦直後、鼻をつまんで脱脂粉乳を飲んでいたと、当時の人の話を思えば、贅沢な世の中になった。そんな人びとの食卓に馴染み深い牛乳のルーツには、日米関係の端緒となった歴史がある。

 伊豆生まれの友人の案内で、下田を観光した時のことだ。辺りを散策すると、ペリー上陸の碑や、吉田松陰が密航しようと身を隠し小舟を漕ぎ出した弁天島など、幕末の史跡が点在する。そのうちの一つに、玉泉寺はある。

 玉泉寺は1856年、タウンゼント・ハリスが日本最初の米国総領事館として開設した場所だ。寺に星条旗が高らかと掲揚されていたとは、現代からは想像もつかない。境内へ入ると、でかでかと英語で書かれたハリスの記念碑や、錨の形をした米海軍の墓があり、異国情緒を微かに匂わせる。

 本堂横の、今にもモーと鳴きそうな「牛乳の碑」が目に入った。ハリスは自身の病から日米修好通商条約の交渉を一時中断し、静養に努めた。その際、しきりに「牛乳が飲みたい」と懇願する。幕府側も初代領事が赴任地で亡くなることを恐れたのか、牛乳の調達に苦心した。ハリスは、15日間牛乳を飲んだ対価として一両三分を与え、それが日本における牛乳売買のはじまりだったという。この石碑が、伊豆で創業した森永乳業によって建てられたことも頷ける。

 加えて日本で最初の屠殺場も、ここ玉泉寺だった。仏教が殺生を禁じる中、寺の境内で食肉用として牛の屠殺が行われたことに驚いた。異国に対し頭が上がらない、当時の幕府の心情を象徴しているように思えた。

 日米は蜜月としばしば表現されるが、その関係は対等には見えない。集団的自衛権の一部行使容認も、米国の要請という側面が色濃い。米国の顔色を窺うことしか能がない日本の政治に、国民の思いは置き去りにされる。