NKHディレクター職内定者

 

題「アメリカ」

  ドドン。桃、緑、黄と色とりどりの花火が上空で打ち上がり、煙となって消えていく。

 毎年夏に富山の祖父の家へ帰ると、祖父と共に花火大会に行くことが恒例になっていた。

 神通川のほとりを歩いていくと、観客席が見えた。米兵だ。地べたで騒ぎながら夏の夜を楽しむ地元民とは、離れたところにいるようだった。米兵は、静かに空を眺めていた。

 「兵隊さんたちは毎年招待されているんじゃけどなあ。ワシらはよそよそしくしてるんよ」祖父はそうつぶやくと、昔話を語り始めた。

 一九四五年八月一日の真夜中。遠くのサイレンの音で目が覚めた。外に出て南の方角を見ると、空が部分的に赤くなっていた。「アア、これは空襲だ!」焼夷弾だろうか、辺りはたちまち昼の様な明るさになった。町は焦熱地獄と化した。

 祖父は学徒勤労動員が始まって以来、燐化学工場で燐鉱石とコークスを運ぶ作業をしていた。空襲の翌朝、混乱しながら昼勤務のため工場に向かった。唖然とした。全焼であった。いつもの作業していた電炉だけが残っていたものの、後は何も残っていなかった。

 家に引き返そうとしたとき、人が横たわっているのを見つけた。同じ工場で働いていた方だった。焼夷弾が落ちたとき、夜勤で作業をしていたのだろう。祖父は思わずタオルで口を覆った。同僚の命を奪った憤りと、遺体の前でただ手を合わせることしか出来ない自分への情けなさでいっぱいとなった。いつも穏やかな祖父が額に汗をかいて熱く語る姿は見たことがなかった。忘れられない夜となった。

 富山の花火大会は曜日に関わらず毎年八月一日に開催される。空襲の記憶を忘れないようにするためだ。大都市の被害と比べ、あまり話題にはならない。しかし地元民の傷は未だに癒えておらず、米兵を敵とみる人もいる。

 それでも私は、米兵と地元民がいつか肩を並べて花火を眺める日が来ることを切に願っている。毎年花火をみる度、強くそう思う。