34年前の瀬下先生

 その日、暮れなずむ皇居の堀を眺めながら、わたしは書いてきた作文の入ったカバンを抱え、待ち合わせ場所に指定された毎日新聞社正面玄関の階段に腰かけていました。1979(昭和54)年秋ごろのこと。わたしが瀬下先生に作文を教わったのは、34年も前のことです。ペンの森ではなく、先生は毎日新聞社発行の「サンデー毎日」デスクでした。30分、45分、1時間…約束の時間を大幅に過ぎても、先生はビルの上階にある編集部から降りてこない。どうしたんだろう。何かあったんだろうか。いや、これは根性試しかも。帰ったら負けだ。いろんな思いが去来しました。焦れて焦れて焦れたころ、

「おう。じゃあ、ちょっと行こうか」

 先生登場。編集会議が長引いたとのこと。そのまま毎日新聞社のビルの中にある居酒屋にいき、作文を渡す。ちょちょいと筆が入り、アドバイスをもらう。2人の間には酒がありました。そうなんです。無料どころか、一杯おごっていただきながら作文を見てもらっていたのです。先生は「七色の文体をもつ」といわれるほど、やわらかくて多彩な文章の書き手として毎日新聞社内でも知られた記者でした。

 

 瀬下先生と知り合ったのは、あるフリーライターの紹介でした。このライター氏は先生の下で仕事をしていて、たまたま私の参加していた早稲田大学内のノンセクトの学生新聞を取材に来たのが縁です。マスコミ寺小屋「ペンの森」の事業をやがて立ち上げる先生の、あのころのわたしは練習台だったのかもしれません。ともかく、おかげでわたしは第一志望の朝日新聞に入れました。いま、50代なかばになって、しきりに「ペンの森」に顔を出していますが、これは、お礼奉公だと思っています。

 

 先生は75歳。ずいぶん歳はとられたけど、毎日、マスコミ志望者を教え、日に3杯の焼酎のお湯割りを欠かしません。わたしも一丁前の飲兵衛に鍛えていただき、日本酒の冷やで相手をさせてもらっています。マスコミ志望者諸君の作文やエントリーシートは、酒が入る前に添削します。飲むとすぐ酔っぱらうのでね。

(平)この稿続く