1979年の就職活動

 話は前後する。インターンシップがはやりだが、ぼくが新聞社を目指していた1979(昭和54)年には、そういう制度もことばもなかった。ぼくはよく、学生さんに「コネも実力のうちだ」と言っている。ひとのコネを羨むくらいなら自分でコネを見つけてくればいい。先に書いたように、慶応大学院生から転じたフリーライターNさんの紹介で瀬下先生と知り合えたのだが、同時にNさんが仕事をしていた朝日新聞出版局の週刊朝日や、その隣の朝日ジャーナルの記者たちも紹介してもらった。いつの間にか当時、有楽町にあった朝日新聞社5階の出版局に出入りするようになっていた。

 編集補助のようなシゴトでアルバイト代をもらった。週刊朝日のニューヨーク別冊などを手伝った記憶がある。そのうちに朝日ジャーナルの編集者から声がかかり、「騎手を失った若者文化」という大特集のなかで、学生の風俗を描くコラムを書かせてもらうことになった。いま社の書庫で調べたら、それは1979年6月15日号だった。

『「僕って何」型不安の対処療法』というのと『リクルートセンターの実力』という2本である。なつかしい。各400字ほど。前者は忘れていたが、リクルートの方はいさあか記憶に残っていた。改めて読む。書き出しは「就職をひかえた四年生に、今一番身近な企業は何かと尋ねたら、日本リクルートセンターという答えがはね返ってきた」。この会社が就職活動中の四年生をモニター会と称して関連ホテルに缶詰めにし、テストや集団討論をさせていた。事前セレクションのにおいがした。じつはぼくもそのモニター会に学内ミニコミ「ワセダタイムス」の同期と参加した。あとになって彼はリクルートからお声がかかり、江副さんの面接まで進み、かなり入社を勧められたようだ(結局、行かなかった)。ぼくにお声はかからなかったが、おかげでコラムが書けた。

 結びは、こうだ。「大企業の人事課に認知されたリクルートセンター。そのうちにリクルートということばが、国語辞典に認知されることにでもなれば、本来、新兵徴収という意味がどのようにジャパナイズされるのか」。署名はなく、(平)の1字のみ。あまり直されなかったと思う。けっこういま読んでも読めるではないか。

 かくて、朝日新聞社出版局の空気をずいぶん吸って入社試験にのぞめた。翌年春、配属地が発表になった。大阪本社管内の鳥取支局だった。大阪に行くとなかなか東京には戻れない、ずっと大阪ということもあると周りから聞かされていた。これで銀座の灯ともお別れか。配属の決まった夜だったか、飲んだ勢いで、ぼくは有楽町の本社前で、

「なんで、おれが鳥取なんだよう」

 と、大声で叫んでいた。(平)

 

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