大もりを注文した老人力

 駅中の中華チェーン日高屋で昼食をとっていたら、隣席にすわった杖つきの老女が肉野菜炒めの大もりを頼んだ。こんな小さなばあさんが大もりを食べるのか、とその食欲ぶりに感心していたら、大もりの皿が一向に減らない。すると、ばあさんは買い物袋からビニールの袋を取り出して皿の中身を詰めはじめた。どうやら夕食にするらしい。だから大もりなのだろう。これは老人の生活の知恵だなあ、とまたまた感嘆しきりだった。

 

 自宅から駅を挟んで向こう側が多摩ニュータウンである。多摩ニュータウンはいまや老人タウンと化し、子どもはほとんで見かけない。朝10時すぎスーパーに買い物にいくと、やたらじいさん、ばあさんが目立つ。そういうこっちもじいさんだが、こっちのかごにはインスタントものは入ってない。生の肉、魚や野菜が主で、包丁やガスといった手をかけねばならないものばかりだ。見ようによっては食堂などの料理人だが、量は少ない。

 

 近くに小学校中学校はあるが、周囲は圧倒的に年寄りが多い。若者は多摩大や国士舘、中大,帝京といった大学が近くにあるので、アパート・マンション住まいをしている学生たちである。深夜に帰宅すると、途中で大声を出してしゃべりながら歩いている若い男女としばしば出会う。子どもの声が聞こえるのは町内の公園で行う餅つき大会のお触れをして回るときか、祭りの山車をかついでいる元気な甲高い掛け声くらいである。

 

 ぼくがここに引っ越してきたのはほぼ30年前だ。小学校にあがる子どものお祝いを町内でしていたから、子どもの数もそこそこあった。京王の特急停車駅だし特急で新宿まで30分、小田急も通っていて不便なところではない。物価も安くすごしやすい住宅地なのに、若者は結婚を機にでてゆくみたいだ。町内もいつの間にやら老人が目につくようになった。うちの東隣は主人を亡くして老未亡人独り、真向かいは夫壮健なるも妻認知症。

 

 という具合なので朝おそくうちをでると、施設の車が駅へ行くまでの10軒のうち3軒は停まっている。介護の出迎え車である。すっかり姿を見なくなったね、と妻と話していると、すでに亡くなっていることも再三再四である。東京の郊外でこういう状況だから都心の団地や地方の限界集落はもっとわびしいだろう。それでもぼくの町内では新築住宅が4軒建ち、物干しを見ると子どもの小さい若夫婦が住みついたようである。

 

 若夫婦は隣近所になんのあいさつもないから、干してある洗濯もので家族構成を推測する以外にない。でも住民の新陳代謝があるのはいいことである。ほっとする。先日の日曜日、ふとしたことから妻が「私たちのお墓どうする?」と聞いてきた。ぼくは樹木葬と決めているが、場所は未定。「都の抽選は何十倍もあるそうよ」と妻がいう。「何回も応募を続ければそのうち」と重ねる。先祖の墓地は鹿児島県にあるがあまりにも遠すぎる。

 

 天皇・皇后も終活をしていたようで、土葬ではなく火葬にしたいと言った。日本は火葬の国だから当然、ぼくも火葬になる。骨壺の上に土盛りをして樹木の苗を植え、その樹木が墓石代わりになるのだろう。ぼくは俳句を詠むとき若い時分から号を恵山人と称してきた。樹木葬こそぼくにふさわしいのである。

瀬下恵介(ペンの森主催)

ペン森通信はこちらからもご覧になれます。