ペン森通信・ペン森就活応援ブログ

2014年

3月

14日

瀬下流作文作法

 ああ、そうだった。先日、Eテレで画家の野見山暁治(のみやま・ぎょうじ)さんの特集を放映していて、思い出した。「作文に色を取り入れろ。そのためには画家の文章を読むとよいよ」。新聞社を目指して文章修業をしていたころ、瀬下師に言われたことばである。35年前のことだ。それで薦められて読んだのが、野見山さんのエッセーだった。おそらく当時ちょうど日本エッセイスト賞を受賞した『四百字のデッサン』だったろう。

 

 瀬下師は、毎日新聞の社会部遊軍、サンデー毎日で、「七色の文体を持つ記者」といわれていた。もうひとつ師がそのころ提唱されたのが、「作文の書き出しをひらがなにしてごらん」。文章全体がやわらかくなるのである。

 

 いま、ペンの森は、マスコミ就活の山場を迎えて、みな必死になってESの文章や作文を書いている。瀬下師に加え、わたしや先にマスコミに就職した先輩たちが添削するわけだが、「題材はいいけど残念な作文」がけっこうある。あふれるほどの思い、書きたいことはいっぱいあるのだけれど伝わらないのである。

 

 「色のある文章」「ひらがなから書き出せ」は小技のようだけれど、文章は伝わらなければ仕方がなく、相手にどう伝えるかの工夫が必要だということだ。サービスといってもよいだろう。ひとりよがりではダメなのである。

 

 野見山さんは東京芸大を卒業して召集され大陸で死線を彷徨う。帰還して画家として大成するのだが、パリで愛妻をガンにより亡くす。その哀惜の思いをエッセーに書き、以後は画業の一方でエッセー集をつぎつぎと発表する。さらに野見山さんは戦死画学生の遺作を収集・展示する「無言館」の設立(1997年)にも奔走した。そして、無言館といえば、瀬下師が学生たちに「ぜひ行きなさい」と薦めている場所なのである。

 

 伝えなければならないという熱い思いと、伝えたいことを正確に相手に伝える技術。瀬下流文章作法の根本だろう。わたしは、まだまだである。(平)

 

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2014年

2月

05日

「都知事ってる」って意味知ってる?

 週刊現代の2月15日号に掲載されているポテチ次郎の連載漫画アー・ユー・ハッピー?にでてくる女子の会話。「昨日の合コンどうだった?」「何か都知事ってたよね」「うん!」

え?何 都知事ってたって・・・」「今回の都知事選みたいにこの人だ!!と思えるような人がいないつまり決め手に欠く感じって意味よ」。たしかにぼくもだれに投票するか困って一時は舛添要一にしようかと迷った。が、すぐに原発ゼロの支持だから細川護熙に戻った。

 

 細川は若い人だけでなく76だぞ、と年寄りもいう。ぼくは持ち場こそ異なるが、同じ時期に警察まわりをした。細川は京大に2度落ち上智を出て朝日の記者になり鹿児島支局から東京社会部に異動する。同じ警察を担当していた読売の記者から聞いた話だが「宴会でだれかが酒をついでくれるまでただじっと座っているだけだった」という。熊本藩主の細川家18代当主の身分が身にしみついて殿さま気分がいっこうに抜けなかったらしい。

 

 大学受験に失敗したから、それなりの挫折は味わっているし、国会議員に転じてからも総理には担がれるものの、あの小沢一郎にいじめられけっこう苦労もしている。政界引退後、というか投げ出し後はTBSラジオでコメンテーターも体験した。週刊文春に連載していた漢詩のふるさとを訪ねるようなコラムは学識の深さを十分に感じさせ、やはり由緒ある家の教養は只者ではなかった。漢詩の読めないぼくなんか同じ世代なのにと悔しかった。

 

 陶芸にいそしんでいることはよく知られているが、展示即売会をやるとたまに1億くらいの売り上げがあったという。細川の名前で売れたと言われるが、素人離れをしたろくろの腕でもあったのだろう。細川家はいまでも熊本では知らぬ人のいない名家だが、東京では通用するとは限らない。世論調査によると都知事候補のニ番手につけて当選はむずかしいらしいが、これとて原発ゼロに切り替えた小泉の応援があればこその2番である。

 

 細川と同じ脱原発を唱えているのは、共産党と社民党が推薦している宇都宮だが、どうして同一主張なのに宇都宮は細川と組まないのだろう。そこは党派性というわが身大事のわがままな関係のせいだ。社民党の源流は戦後の大野党日本社会党だが離反相次ぎ、いまやあるかなきかの存在に落ちぶれた。独自候補を擁立できない民主党の体たらくが「都知事ってる」最大の原因だろう。健全な野党がないので原発推進自民の一強支配を招いた。

 

 「日本は燃料に乏しい国だが、主要な工業国の中でも再生可能エネルギーにはもっとも恵まれており、現在行われているプランよりも小さなコストとリスクで、エネルギー効率の高い長期的なエネルギー需要を全体として満たすことができる」と『新しい火の創造』という本の序文にある。物理学の権威エイモリ―・B・ロビンスの著作だ。世界の地熱発電の機器は大半が日本の電気メーカーの製品、というドキュメンタリーを見たこともある。

 

 ドイツは3・11の2ヶ月後に脱原発に政策転換した。2020年の東京五輪招致で浮かれているが、大震災からまもなく3年、14万人が故郷を失って県外に脱出したままの福島のことを忘れちゃいけない。都知事ってるなかでも、細川は大震災被災者に心配りをするから支持したい。

 

瀬下恵介(ペンの森主催)

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2014年

1月

14日

仲井真知事は沖縄を3000億円で売った!?

 東京都知事選は細川・小泉連合の参戦で俄然おもしろくなってきたが、ここではその前の今月19日投開票の沖縄名護市長選に注目したい。きょう14日付の朝日の情勢調査によると、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に反対の稲嶺進が末松文信より有利に展開しているそうだ。これは予想通りである。仲井真知事は12月27日国に対して態度を軟化させ、辺野古沿岸部の埋め立てを承認して、沖縄県民の反発をかっていた。

 

 国は仲井真に毎年3000億円以上の沖縄振興予算を確約したが、仲井真知事は3000億円で沖縄を売った、と感じる沖縄県民もいるらしい。仲井真は2010年の知事選で県外移設を公約に掲げて当選した。とんでもない裏切りである。戦後69年にわたって基地負担をしてきた沖縄県民は当然、納得しない。沖縄は辺野古移設と振興策をセットで考える国を警戒してきた。二つは別物というのがこれまでの言い分だったのだ。

 

 普天間の県外移設は民主党の鳩山由紀夫が総理のとき叫んだ。鳩山とつぎの管直人は史上最低の総理大臣だったが、鳩山に功績があったとすれば、県外移設という手があることを国内に知らしめたことだ。これによって沖縄県民も国民も県外移設の妙手に一時、うなったのである。同時に日本がアメリカにまだ占領されていることも意識せざるをえなかったわけである。完全な占領ではないが、半分占領された独立国家が日本なのだ。

 

 保守系の仲井真は自民党や安倍政権を頼りにしているが、県外移設を政権側が考慮しているという話はいっこうにきこえてこない。仲井真はなんの約束事もなしに勝手に知事に当選しそうな県外移設を唱えていた。これでは目算ゼロの鳩山とそっくり同じである。民主党はいまや気息延々たるものだが、沖縄縄を売った仲井真も辞職ものであろう。埋め立て承認時、仲居真が安倍へのおべんちゃらに気色悪さを覚えたひとも多かったはずだ。

 

 名護市長選は辺野古移設反対の稲嶺と移設推進新人との一騎打ちだ。辺野古移設の是非をめぐる戦いだが、現職の稲嶺が勝つだろう。そうすればアメリカから公式に失望された安倍政権は、強引な手段で辺野古移設を進めてアメリカのご機嫌をとろうとするだろう。これでますます沖縄県民の民意は離れて、沖縄独立の機運が生じてくるかもしれない。ぼくは沖縄には2回しか行ったことはないが、日本語が通じる独立国の誕生に賛成だ。

 

 ナポレオンの使いが中国からの帰りに当時の琉球と言った沖縄に立ち寄ったそうだ。帰国してナポレオンに報告した。「戦争をまったくしたことのない独立国が太平洋にありました」と。「そんな国があるわきゃない」とナポレオンは信用しなかったという。日本は核爆弾5000発がつくれる量のプルトニウムを国内外に保有し、周辺国から懸念されているが、安倍政権で風向きが怪しくなった日本の隣に真の平和国家ができればすばらしい。

 

 順風満帆に見えた安倍政権だが、名護市長選で辺野古移設推進が敗れ、東京都知事選で原発ゼロの細川が小泉の支援をえて勝てば、安倍の内憂外患がはじまる。名護は稲嶺が、東京は細川が勝つとぼくは期待を込めてみている。困った安倍は沖縄独立に手を貸し、原発再稼働と輸出をあきらめるだろうか。そうしてもらいたいものだ。

瀬下恵介(ペンの森主催)

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2013年

12月

13日

1979年の就職活動

 話は前後する。インターンシップがはやりだが、ぼくが新聞社を目指していた1979(昭和54)年には、そういう制度もことばもなかった。ぼくはよく、学生さんに「コネも実力のうちだ」と言っている。ひとのコネを羨むくらいなら自分でコネを見つけてくればいい。先に書いたように、慶応大学院生から転じたフリーライターNさんの紹介で瀬下先生と知り合えたのだが、同時にNさんが仕事をしていた朝日新聞出版局の週刊朝日や、その隣の朝日ジャーナルの記者たちも紹介してもらった。いつの間にか当時、有楽町にあった朝日新聞社5階の出版局に出入りするようになっていた。

 編集補助のようなシゴトでアルバイト代をもらった。週刊朝日のニューヨーク別冊などを手伝った記憶がある。そのうちに朝日ジャーナルの編集者から声がかかり、「騎手を失った若者文化」という大特集のなかで、学生の風俗を描くコラムを書かせてもらうことになった。いま社の書庫で調べたら、それは1979年6月15日号だった。

『「僕って何」型不安の対処療法』というのと『リクルートセンターの実力』という2本である。なつかしい。各400字ほど。前者は忘れていたが、リクルートの方はいさあか記憶に残っていた。改めて読む。書き出しは「就職をひかえた四年生に、今一番身近な企業は何かと尋ねたら、日本リクルートセンターという答えがはね返ってきた」。この会社が就職活動中の四年生をモニター会と称して関連ホテルに缶詰めにし、テストや集団討論をさせていた。事前セレクションのにおいがした。じつはぼくもそのモニター会に学内ミニコミ「ワセダタイムス」の同期と参加した。あとになって彼はリクルートからお声がかかり、江副さんの面接まで進み、かなり入社を勧められたようだ(結局、行かなかった)。ぼくにお声はかからなかったが、おかげでコラムが書けた。

 結びは、こうだ。「大企業の人事課に認知されたリクルートセンター。そのうちにリクルートということばが、国語辞典に認知されることにでもなれば、本来、新兵徴収という意味がどのようにジャパナイズされるのか」。署名はなく、(平)の1字のみ。あまり直されなかったと思う。けっこういま読んでも読めるではないか。

 かくて、朝日新聞社出版局の空気をずいぶん吸って入社試験にのぞめた。翌年春、配属地が発表になった。大阪本社管内の鳥取支局だった。大阪に行くとなかなか東京には戻れない、ずっと大阪ということもあると周りから聞かされていた。これで銀座の灯ともお別れか。配属の決まった夜だったか、飲んだ勢いで、ぼくは有楽町の本社前で、

「なんで、おれが鳥取なんだよう」

 と、大声で叫んでいた。(平)

 

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2013年

12月

03日

大もりを注文した老人力

 駅中の中華チェーン日高屋で昼食をとっていたら、隣席にすわった杖つきの老女が肉野菜炒めの大もりを頼んだ。こんな小さなばあさんが大もりを食べるのか、とその食欲ぶりに感心していたら、大もりの皿が一向に減らない。すると、ばあさんは買い物袋からビニールの袋を取り出して皿の中身を詰めはじめた。どうやら夕食にするらしい。だから大もりなのだろう。これは老人の生活の知恵だなあ、とまたまた感嘆しきりだった。

 

 自宅から駅を挟んで向こう側が多摩ニュータウンである。多摩ニュータウンはいまや老人タウンと化し、子どもはほとんで見かけない。朝10時すぎスーパーに買い物にいくと、やたらじいさん、ばあさんが目立つ。そういうこっちもじいさんだが、こっちのかごにはインスタントものは入ってない。生の肉、魚や野菜が主で、包丁やガスといった手をかけねばならないものばかりだ。見ようによっては食堂などの料理人だが、量は少ない。

 

 近くに小学校中学校はあるが、周囲は圧倒的に年寄りが多い。若者は多摩大や国士舘、中大,帝京といった大学が近くにあるので、アパート・マンション住まいをしている学生たちである。深夜に帰宅すると、途中で大声を出してしゃべりながら歩いている若い男女としばしば出会う。子どもの声が聞こえるのは町内の公園で行う餅つき大会のお触れをして回るときか、祭りの山車をかついでいる元気な甲高い掛け声くらいである。

 

 ぼくがここに引っ越してきたのはほぼ30年前だ。小学校にあがる子どものお祝いを町内でしていたから、子どもの数もそこそこあった。京王の特急停車駅だし特急で新宿まで30分、小田急も通っていて不便なところではない。物価も安くすごしやすい住宅地なのに、若者は結婚を機にでてゆくみたいだ。町内もいつの間にやら老人が目につくようになった。うちの東隣は主人を亡くして老未亡人独り、真向かいは夫壮健なるも妻認知症。

 

 という具合なので朝おそくうちをでると、施設の車が駅へ行くまでの10軒のうち3軒は停まっている。介護の出迎え車である。すっかり姿を見なくなったね、と妻と話していると、すでに亡くなっていることも再三再四である。東京の郊外でこういう状況だから都心の団地や地方の限界集落はもっとわびしいだろう。それでもぼくの町内では新築住宅が4軒建ち、物干しを見ると子どもの小さい若夫婦が住みついたようである。

 

 若夫婦は隣近所になんのあいさつもないから、干してある洗濯もので家族構成を推測する以外にない。でも住民の新陳代謝があるのはいいことである。ほっとする。先日の日曜日、ふとしたことから妻が「私たちのお墓どうする?」と聞いてきた。ぼくは樹木葬と決めているが、場所は未定。「都の抽選は何十倍もあるそうよ」と妻がいう。「何回も応募を続ければそのうち」と重ねる。先祖の墓地は鹿児島県にあるがあまりにも遠すぎる。

 

 天皇・皇后も終活をしていたようで、土葬ではなく火葬にしたいと言った。日本は火葬の国だから当然、ぼくも火葬になる。骨壺の上に土盛りをして樹木の苗を植え、その樹木が墓石代わりになるのだろう。ぼくは俳句を詠むとき若い時分から号を恵山人と称してきた。樹木葬こそぼくにふさわしいのである。

瀬下恵介(ペンの森主催)

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マスコミ寺子屋

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